取締役 大出 京子
私は、曾祖母、祖父母、父母が暮らす農家の長女として1950年に鳥取県米子市に生まれました。二年後に弟が生まれ、私はおばあちゃんっこで育ちました。代々、世話好きな血筋で、農閑期には近所の小父さん達が、よく我が家に集い〈どじょう鍋〉や〈雑多鍋〉を囲んで宴会をしていました。父は、下戸でおちょこ一杯のお酒で真っ赤になり早々に寝てしまい、母はお酒に強くにこにこと愛想よく父の代わりを務めながら、こまごまと動き回っていた姿が今でも目に浮かびます。
私は、小さい時から、洋裁や編物が好きで、地元の高校を卒業後、芦屋の服飾専門学校に入学し、青春の2年間を芦屋で過ごしました。卒業後は、洋装店やブティックで働き、結婚後は自宅でオーダーの仕事をしていました。息子の誕生を機に夫の母と同居となり、「一家に主婦は、二人は必要ありません」と勝手な理屈を言い、主婦の座を姑にお願いし、私は好きな洋裁の仕事を続けていました。姑は、リュウマチで手足の指が変形し動き難い身体でありながら、嫌な顔ひとつせず、家事をこなし、孫を可愛がってくれました。しかしながら、徐々に動けなくなってきたため、私は仕事を整理し、介護と子育て、家事を行う生活に切り替えました。昭和の最後の年、2ヶ月の入院の末、息を引き取りました。その2ヶ月間、夫が子どもの世話をし、私は病院に泊まりこんで姑のそばにいました。ある日、身体中管だらけの義母が「京子さん、鋏貸して」と言うのです。「お義母さん、鋏で何するの?」「この管を全部切って、家に帰る」その頃の私は、無知でした。どうして良いのか分からず、ただ「良くなったら家に帰れるから・・・」との言葉を繰り返し、そばにいるだけでした。
芦屋市の広報に《ヘルパー募集》の記事が出ており、ふとその気になり応募しました。小論文と面接の試験があり、幸いなことに合格し、平成5年4月より『芦屋ハートフル福祉公社』の登録ヘルパーとして福祉の分野で仕事をする事となったのです。42歳でした。
○○ この続きはマーガレット通信2005年10月号
○○ 「原点に戻る その6」をご覧下さい